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「世界中のグローバル人材と日本企業をつなぐ」唐橋宗三 -前編-

今回は、“Global People make Global Companies, Society”「テクノロジーで世界中のヒトと会社、社会をボーダーレスに」をミッションに掲げる、株式会社SPeakの代表取締役を務める唐橋宗三さんにお話を伺いました。

 

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唐橋宗三 株式会社SPeak(スピーク)代表取締役CEO

プロフィール:2001年に単身渡米し、バーモント州・ニューヨーク中心部で8年間を過ごし、世界中の優秀な若者のダイバーシティの可能性を感じる。外国人として過ごした異国での生活、日英バイリンガル最大級ジョブフェア・ボストンキャリアフォーラムの運営経験、日系グローバル企業・社会人学生生活の中で企業側・多くの学生側の課題や現状や可能性を感じ(株)SPeak立ち上げに至る。

 

【テクノロジーで世界中の人と会社をつなぐ】

━はじめに、唐橋さんの事業について教えてください。

 

唐橋:私が代表を務める株式会社SPeakは、”Global people make global companies”をミッションとして掲げ、日本を世界中の若者のはたらくDESTINATIONにする、そして世界中のYoung Global Talentのためのボーダレスで新しい「就活」を作る、ということを目指しています。昨年の4月に起業し、現在はJ-port journalというウェブのキャリアメディアを運営しています。日本の就活を日本語と英語で解説するメディアなんですが、1年間で約2000名もの学生がサブスクライバーになってくれています。さらに、ウェブのマッチングサービスJ-port matchを現在開発中です。

 

【自分が輝ける未来を求めてアメリカ留学を決意】

 

━日本の中学校を卒業後、附属高校の自主退学を経てアメリカの高校に留学したそうですが、どのような経緯があったのでしょうか?

 

唐橋:私が中学校に入るタイミングで、大事にしていた親類が自ら命を絶ってしまいました。そのことで私自身も辛い思いをし、当時は世界が白黒に見えていました。そして学校でも、もともとサッカーをやっていて、勉強もそれなりにできて入ったつもりだったんですが、落ちこぼれてしまっていました。学校の画一的な教育方針に違和感を感じていたこともあり、ここで死ぬほど頑張って大学受験をして、たまたまどこかの大学に入れたとしても、自分なりに輝くことはできないのではないかと感じていました。それでよく考えてみたら、自分の唯一よくできた勉強が英語だったので、これが突破口かもしれないと思いました。留学すればこの白黒な世界からも離れられると思い、親に留学したいとお願いしました。

 

━高校の自主退学やアメリカ留学を決断した際には、将来の明確なビジョンなどがあったのでしょうか?

 

唐橋:全然ロジカルな決断ではなかったです。言うのであれば、何かしら爪痕を残したかった。高校を自主退学したときは、こんなのやってられないと思って辞めたんですが、このままじゃダメだとも感じていたので、アメリカに留学すれば名誉挽回できるんじゃないかという思いがありました。

 

━それでまずオクラハマ州の高校に留学し、その後バーモント州の高校に転校されたんですね。留学先ではどのようなことを感じていましたか?

 

唐橋:アメリカ人も本音と建前があるのはみなさんご存知だと思うんですけど、それでも意見を言うことや主張することには、何も文句言われることは基本的に無いという感覚が自分の価値観や文化に合っていると感じていました。また、中学に入る前からサッカーをやっていたんですが、中学受験で入った学校のサッカー部はレベルが高く、中学生になると下手な方になってしまいました。でもアメリカではいきなりエースになっちゃって。そういう自分が苦手だと思ってたことや、はっきり意見をいうことなどの日本では隠しておいた方が良いと思っていた感覚が覆ったことで、ここなら自分を伸ばせると感じましたね。

 

【多様なバックグラウンドを持つ部員がいるサッカー部でリーダーシップを発揮】

 

━高校卒業後はニューヨークの大学に進まれたそうですが、なぜニューヨークの大学を選んだんですか?

 

唐橋:ニューヨークを選んだ理由は三つありました。一つ目は、田舎に飽き飽きしていたこと。二つ目は、バーモント州に移ってから出会った香港からの留学生、今の妻が先にニューヨークの大学に通っていたこと。三つ目は、あまり興味のある科目がない中で、心理学には興味があったから。中学生の時に親類が自ら命を断つという出来事の影響で興味を持っていたし、高校の時に取った心理学の授業がおもしろかったこともあって、勉強を本気でやるとしたらそれくらいだと思ったんです。中でも犯罪心理学に興味があったので、ニューヨーク市立大学ジョンジェイ校がFBIやNYPDに人を輩出してると聞き、この大学を選びました。

 

━大学でもサッカーを続け、サッカー部の主将を務めていたそうですね。学部生の大半が黒人やラテン系移民だったそうですが、サッカー部の主将として苦労したことはありましたか?

 

唐橋:市立大学なので比較的学費が安く、学生も色々な国の人がいました。みんな学資援助を受けていたり、自分でバイトやフルタイムの仕事をしたりしながら勉強をしていて、生活がかかった中でサッカー部に所属している人ばかりでした。それに加えて、みんなすごく主張するから喧嘩も多かったです。チームメイト同士が互いを尊重する、ということがなかったので、私は主将としてみんなの話をちゃんと聞いて懐に入りつつ、やる気を出してもらうと言う感じでマネジメントしていました。それと同時に、怒るときは怒り、言うときは言うということにも気を付けていました。

 

【ボスキャリでのインターンを通して芽生えた、日本の就活を変えたいという思い】

 

━大学在学中にボスキャリの運営に参加したそうですが、参加の経緯とそこでの経験について教えてください。

 

唐橋:犯罪心理学を勉強していて、教授と話していた時に「FBIになりたい、プロファイリングとかできるようになりたい」と言ったら、「ドクターまで行かないと難しいし、そもそもFBIはアメリカで生まれてないとなれないよ。日本の警察庁とかに進むとしても、ドクタークラスは行かないと一流にはなれないよ」と言われ、それは無理だと思ったんです。もともと勉強が嫌いなので。じゃあもう就活しようと思って、二年生で初めてボスキャリに参加しました。その場で面接できる点などが素晴らしいと感じたので、三年生のときにボスキャリでインターンを始めました。一緒に運営に関わらせていただく中で、ボスキャリって企業側にかかる経費が結構高いんですが、その中で費用対効果が出てる会社は、あくまで僕の感覚ですが、意外と少ないんじゃないかと思いました。学生が焼肉奢ってもらう場所になってるぞと。おそらくこれだけじゃグローバルな人が日本にもっと集まるようにはならないだろうと感じていました。

 

━ボスキャリの運営に携わる中で、企業と人材が出会う場として何か感じた事はありましたか?

 

唐橋:もちろん僕自身も就活生として助けられた部分もありますが、ボスキャリは年に一度しかなかったので、繋がれる期間がすごく短いと感じていました。それに、アメリカには当時からリンクトインフェイスブックがありましたが、日本にはそう言ったツールがありませんでした。ギャップイヤーが取りづらい、といった学生に不利な就活ルールもありました。そういった日本の就活文化みたいなものを変えたいという思いは、その時から朧げにはありましたね。

 

アメリカの大学を卒業し、日本で働くという選択をしたのは何故ですか?

 

唐橋:日本に恩返ししたい、という気持ちがあったからです。日本には外のものを取り入れる文化が歴史的に根付いているはずなのですが、今そうではないのには、就活をはじめとする色々な壁があると思うんですね。そういう壁が少しずつでもなくなっていけば、もっともっと日本はダイバーシティに富んだ場所になると思っています。

 

後編に続く