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「起業家になるよりまずは逆境を楽しむこと!」岩崎貴帆 -Part1-

今回のインタビューでは、Maji Connection CEOの岩崎貴帆さんにお話をお伺いしました。岩崎さんは国際基督教大学を卒業し、フジテレビやシリコンバレーでのインターンMBA取得。Maji Connectionを設立したのち、現在は日米のビジネスを繋ぐビジネスディベロップメントを行っています。今回も主にゲストの生い立ち、起業という選択肢まで、そして起業してからの経験をご自身の価値観と併せながら迫っていきました!

 

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岩崎貴帆 Maji Connection CEO

プロフィール:アメリカ・ニューヨーク生まれ。ハワイ在住。2003年に国際基督教大学へ進学。フジテレビへ就職し、5年ほど働いた後、MBA取得のためにハワイ大学マノア校大学院に入学。現在に至るまで、インターローカルメディアや家族の会社である岩崎産業等での仕事やシリコンバレーインターンを経験。その後、2019年にMaji Connectionを設立し、現在に至る。

 

【日米のスタートアップを繋ぐ架け橋。】

 

━ まず初めに現在のMaji Connectionの業務内容について教えてください。

 

岩崎さん:Maji Connectionでは、主にスタートアップ支援、適切な言葉では、アクセラレーター(シード段階を過ぎたスタートアップ企業を支援する組織のこと)、日米のスタートアップへ投資家やジョイントベンチャー(複数の企業が互いに出資し、新しい会社を立ち上げて事業を行うこと)、コラボレーションの可能性を探し、メンターをしています。個人投資家としても数社のスタートアップに投資しているところです。ハワイの中小企業が日本に商品を入れ出したい時、サービスを生み出したい時のコンサルティングもしています。具体的にはネットワークイベントやピッチイベントの開催です。

 

アメリカ人になりたいという夢。逆境を楽しむ心。】

 

━ お仕事の話も後ほど、伺います。ここからは生い立ちから伺って、現在の岩崎さんを形作っているものを探ります。お父様のお仕事の関係でニューヨークに生まれましたが、生後6ヶ月で鹿児島へ移住。その後は高校卒業まで鹿児島に。幼少期を振り返り、どのようなお子さんでしたか。また、当時の夢は何でしょうか。

 

岩崎さん:アメリカは半年しかいなかったので覚えていないです。アメリカに生まれたのに外国人経験をしていない悔しさから、3,4歳の時から夢は「アメリカ人になりたい」でした。私自身、とにかく変わっていて大人目線で見たら嫌な子供だったなと思います。外遊びが嫌いで、グループ行動ができない。個人行動大好き。幼稚園でみんなが「何とかちゃんと何とかちゃん一緒に集まって〜」という感じで集まったときに「何で集まらなきゃいけないんですか」みたいな(笑)「私は幼稚園にこれをしに来てるわけではありません」「本が読みたいので本を読みます」みたいな(笑)、小学校のときも感じの悪い子供で「何でこれをやらなきゃいけないんですか」「なんでこの科目をそんなにやらなきゃいけないんですか」というみんなの質問に対する「みんながやってるから」という先生の答えに納得がいかなくて、先生と喧嘩していました。あとは、いじめられていました。ただ、それを挑戦と受け止めて、相手とどうやって仲良くなれるかを、ゲーム感覚と言ったらおかしいですけど、考えて、仲良くなって、「ほれ見たことか」と思っていました。先生とのディスカッション、先生の論破、いじめを挑戦だと思うといった逆境楽しむところは大人になっても活きているスキルです。

 

━ 幼少期からご家族がホテルを経営されていますが、それに関して幼い頃受けた影響等ありますか。

 

岩崎さん:家族経営で、母方が経営一家でした。周りが全員経営者だったので、アントレプレナーシップとまではいかないにせよ、ビジネスオーナーになる大変さは、肌で感じていました。結婚して専業主婦になるというよりは、父親の背中を見て、自分も将来はこのくらいワーカホリックというか、仕事に没頭するだろうなというイメージもありました。

 

━ 当時から周りが起業家というか経営者だから、自分の起業家になろうとかそういう考えはありましたか。

 

岩崎さん:起業家になりたいと思ったことは一度もなくて、どちらかというと、戦略やマーケティングなど全部そうですけど、こうしたら良いのにみたいなアイディアがあって、それを実行するには、役員クラス、ないしは、起業家・事業家なので、たまたまそっち方面に来ただけで、起業家になりたい、会社を立ち上げたいと思ったことは1回もないです。

 

【大学で手放した違和感。手に入れた開放感。そして、後悔。】

 

━ 先ほど少し出ましたが、国際基督教大学に進学されました。なぜICUだったんでしょうか。また印象に残っているエピソードや行っていた活動があれば、教えてください。

 

岩崎さん:元々アメリカの大学に行きたくて、ただ単に日本に残って欲しかっただけだと思いますけど、父親に「それは受験の逃げだ」と言われて、「え。」みたいな(笑)それで一番アメリカっぽい大学と思って見つけたのがICUでした。今でこそ知名度がありますが、国立大学が偉くて、私立で行って良いのは慶応と早稲田みたいな田舎の典型的な進学校で、第1志望にICUと書いて、第2志望に慶応と書いて、進学希望書を出したら、先生に「お前なんだ、集中治療室行くのか」と真面目に聞かれたという(笑)当時のICUは、そのくらい知名度が無くて(笑)ICUは合っていました。変わっている人多いので、自分に違和感を感じなくて良かったです。初めて心が解放された瞬間でした。今ですら東京から5,6年は遅れていると思う鹿児島から上京した時、東京の都会感やICUの開放感を感じました。慶応や他の私立に行っていても楽しかったとは思いますけど、ICUは良かったですね。

 

━ 大学時代描いてた将来像みたいなものはどのようなものでしたか。

 

岩崎さん:アメリカに行って働くだけのために生きていました。とにかくアメリカに行きたかった(笑)なりたいものややりたいものはなかったですけど、アメリカに行くためだけに動いていたので、もう少し戦略的に科目を取っておけば良かったと思います。すごく後悔しているのがキリスト教概論(ICUの必修科目。通称キリ概)を真面目に受けなかったことです。生粋の日本人なので、何でキリスト教の勉強なんかしなければいけないのだと思っていました。だけど、アメリカの国の宗教はキリスト教で、アメリカ人には根本的にその考え方があります。無宗教の人にすらクリスチャン的な意識があります。私がこの前結婚した旦那も敬虔なクリスチャンです。そしてキリスト教は歴史がありますよね。ビジネスには歴史が根深く関わっていて、ファイナンス業界にユダヤ人が多い理由もキリスト教と歴史の話です。そして、ランゲ(教養学部語学科:2008年度よりアーツ・サイエンス学科に統合)でしたが、ICUの良いところは学科を問わず色々な授業を受けられるところなので、MBAで真面目にやったファイナンスやアカウンティングだけではなくて、理系の基礎知識がICU時代にあったら全然違ったかなと思います。ICUなので他の大学生より勉強をしていたし、そこで培われた4年間で英語も普通の人よりは話せるようになりました。ただ、もっと勉強しておけば良かったなと後悔しています。

 

【就職。多忙な日々と達成感。忘れ去られた夢。】

 

━ 卒業後、フジテレビに就職された理由は何ですか。また、就職活動の目標、アメリカに行く目標に対するフジテレビの位置づけを教えていただきたいです。

 

岩崎さん:恥ずかしいくらい流されて生きていたので、理由は無いになります。ただ、高校生の時に、最速でアメリカに行く方法を考えて、アメリカ人と結婚した方が良いとなり、それならハリウッド男優が良いと思いました。どうやったら日本で会えるか。字幕制作かなと思い、アメリカのドラマやハリウッド映画を見まくりました。見るうちに個人的に好きになって、エンタメの力の凄さに気付きました。例えば、プロパガンダ的な部分で、第二次世界大戦のハリウッド映画は全部アメリカ目線で話されるからハリウッド映画を見ている人は、裏に違うストーリーがあっても、アメリカが正しいと思い込みます。それが怖いし、すごいと思って、エンタメ業界に興味を持ちました。今ならNetflixに就職願が出せますが、当時はそんなものないので、一番近いのが東映やドラマの字幕を作ったり、解説しているところでした。でも、何か違うと思って、エンタメ制作とビジネスの間、ジャーナリズムも混ざった形で面白いことできないかなと思っていました。ICUという良い大学に入ったので、良い企業に入りたいなとなった時、テレビ局が人気もあって、お給料も良くて、キー局の中でフジテレビが一番力を持っていて、テレビ放送以外にも色々な事業に手を広げていたので、フジテレビにしようという感じでした。他も受けましたけど、運良くご縁がありました。今と時期が違うかもしれないですけど、就活し始めてすぐにフジテレビから内定が来て、もう決まったから良いやみたいな感じでした。フジテレビに入りたかったので、OB訪問はめちゃくちゃしましたけど、就活で何百社も受けるみたいなのはなかったですね。

 

━ フジテレビにはどのくらいの長さいるつもりだったのでしょうか。結婚しても専業主婦にはならないとなると、アメリカに移住して働くという形を描いていたのでしょうか?

 

岩崎さん:アメリカに行きたいと思っていたのに何故フジテレビ入ったのかもよくわからずに入社し、営業に配属されました。本当に激務で、飲み会もすごく多くて、しんどいとか嫌だというよりも毎日の仕事をこなすのに必死で、最初の3年、将来のことは考えられなかったです。3年目くらいのとき、仕事に余裕が出てきて、後輩もできて、楽しくなって来ました。影響力も出て来て、広告代理店さんの偉い方、スポンサーさんの偉い方、多くはなかったですが、芸能人の方と仕事することもあり、企画も楽しく、アメリカに行くことを忘れていました。ただ、30歳手前、27歳か28歳くらいのときに、フジテレビで一生働くことに疑問に抱きました。まだ女性が少なく、ここで偉くなるイメージがつかなかったというのも1つの要因です。女性の方で1人、昇進されて、部の部長等をされていた方がいましたが、実力がある方なのに、そのポジションなのかみたいな感じで、女性としての見えない天井が見えて、将来像が描きにくくなりました。もう1つの要因は、今でも覚えていますけど、午前1時くらいに残業してて、隣の先輩に「私、将来生まれ変わったらスーパーモデルになってニューヨークとかアメリカとかヨーロッパとか旅しまくるんです」とぼそっと言ったら、「お前なんか来世なんてどうせなれてもセントラルパークの蟻だよ」と言われました。私の来世はセントラルパークの蟻なのか。蟻ならニューヨーク行っても何もできないなと思って、今世中にやりたいことをやっておかないといけないなと思って、3日後に辞めました(笑)

 

ーpart2 に続くー