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「誰のために働くのか〜農業や農家が抱える課題の解決へ〜」井出飛悠人 - 前編 -

株式会社シェアグリは農業の課題をシェアリングエコノミーの力で解決し、現在は特定技能外国人派遣サービスの提供、新型コロナによる休職・失業者マッチング、技能実習生の来日が困難となった農家に人材を派遣することなどを行っています。技能実習二号を修了した高スキルの外国人人材を派遣、農繁期のみの派遣による大幅なコストカットによる「必要な人材を必要な期間だけ」を提供する、株式会社シェアグリで代表取締役CEOを務める井出飛悠人さんに今回はお話を伺いました。

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【代々続く種苗会社の長男として育った幼少期】

 

━今回は株式会社シェアグリCEOの井出飛悠人さんにお話を伺います。井出さんは長野県で種苗会社を営むご家族の元に生まれ、農業が身近にある環境で幼少期を過ごし、大学4年時に参加したピッチコンテストをきっかけに株式会社シェアグリを設立されました。現在シェアグリではどんな事業を展開していますか?

 

井出:シェアグリでは農家さんの人手不足解消と人件費削減を目標に、農繁期のスポットでの人材派遣事業を行っています。また、派遣されるスタッフたちがいろいろな産地をリレーすることによって人材の産地間リレーを作り、農業の産地を強くしたり、プロの人材を育成したりすることに力を入れています。

 

━そのような画期的なサービスでの起業に至った背景には、井出さんが農業が身近にある環境で育ってきたことがあると思いますが、幼い頃どのように農業と関わっていましたか?

 

井出:種苗会社っていうのがそもそも、種や苗、農資材などを農家さんに売ったり、農協さんに販売したりする会社なので、うちの実家に来る方々はみんな農業に関わりがある方でした。もちろん自分の実家も畑や田んぼをやっていたので、小さい時は畑作業の手伝いに駆り出されたり、おじいちゃんとかに教わりながら色々な作物を作ったりはよくしてましたね。

 

━農業が生活そのものとも言えるほど、密接な関わり方をされていたんですね。幼い頃から、将来は家業を継ぐものだと思っていたそうですが、継がないという選択肢はなかったのでしょうか?

 

井出:今考えてみると、継がないっていう選択肢もあったとは思います。ただ、自分は実家が家業をやっていて、雇用している従業員さんもいて。そういう環境の中に長男として生まれてきたので、ゆくゆくは実家に戻ってこの家業を継いで、そのまま自分の人生を終えていくんだろうな、と当たり前に思っていました。当時はそれ以外の選択肢は考えられないような環境でしたね。

 

━自分の将来が決まっていることに対して、どのように感じていましたか?

 

井出:大学に入学して色々考えていく中で、大人になりたくないとか、仕事したくないとか思うようになりました。自分の30年後が知りたければお父さんを、60年後が知りければおじいちゃんを見れば、だいたいこんなことやってるんだろうなっていうのがわかるような感じだったので、自分の人生が決まりきっていて面白くなさそうだな、と思っていました。

 

【サッカー三昧の高校生活を経て、東京の大学へ】

 

━大学に入るまでは家業を継ぐことに対して疑問を感じていなかったそうですが、なぜ東京の大学に進学したんですか?

 

井出:実はこれ、すごく雑に決めたんです(笑)高校生の時は、親元を離れて寮生活をしながら3年間ずっとサッカー三昧の生活を送っていました。引退が三年生の冬だったので、そもそも大学に向けて受験勉強するなんていう考えが一切なかったですし、どこの大学に行こうとかも全く考えていませんでした。部活を引退後、大学をどこにしようって考えたときに、実家の家業が農業系だったので農学部経営学部に絞り、自分の成績で行ける範囲内で指定校推薦がある大学を選びました。

 

━大学に入学後、留学を経験したそうですが、それはいつ頃でしたか?

 

井出:大学二年生の春学期に、短期留学でカナダに行きました。私の学科では留学が必須だったので、自分から進んで留学したという訳ではなく、きっかけは与えられたカリキュラムに乗っかったことでした。

 

━留学でどのようなことを感じましたか?

 

井出:留学生活はすごく楽しかったです。英語も話せないのにサッカークラブに入ってみんなでサッカーやったり、友達に連れられて色々な人の誕生日パーティーに行ってみたり、そういった経験をする中で新しい人と関わったり、新しい環境に入っていったりすることの楽しさを感じることができました。

 

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【「働く」とは誰かを楽にすること】

 

━留学後は、民泊の運営代行のビジネスを在学中に始めたそうですが、どのようなきっかけで始めたんですか?

 

井出:留学が終わってからはベトナムで2週間のインターンをしたり、自分の生き方ややりたいことを考えるスクールに行ったりしました。その中で、なんだかんだ言って自分はやっぱり地元や実家の家業、農業が好きなので、そこにある課題を解決したいと思うようになりました。特に地方の課題を解決したいという思いが強かったので、地方が抱える課題を解決するためのスモールビジネスを在学中にいくつか立ち上げたのですが、その中の一つが民泊の運営代行でした。実家は軽井沢の近くだったのですが、地元では空き家が問題になっていたので、別荘管理会社さんと一緒に別荘を一つ買い、人が泊まりに来れるように中をリノベーションして、それをAirbnbなどに掲載しました。また、宿泊予約が入った物件の掃除を代行したり、物件をエアビーに掲載して、予約の際に必要になる英語でのやりとりを代行したりしたりしていました。

 

━大学入学や留学は自発的に選んだことではなかったのに対し、ビジネスを始めた時期から自分の道を自分で選ぶようになったそうですが、どのような意識の変化がありましたか?

 

井出:意識の変化のきっかけは色々あったんですが、中でも大きかったのは株式会社はぐくむのたけさんという方の「傍を楽にする」という言葉です。これは「働く」の語源なんですが、傍とは自分の周りの人のことなので、「働く」とは誰かを楽にすると言うことなんです。この言葉に出会って、そもそも自分にとって楽にしたい人とは誰なんだろう、と考えるようになりました。そして、それまでは「働く」ということに関してネガティブな印象が強かったんですが、「働く」とは自分の好きな人や自分の対象にしたい人たちを楽にすることなんだ、とポジティブな方向に自分の考え方をシフトすることができました。

 

【失敗してもやり直せる年齢だからこそ、今やるべきことに挑戦する】

 

━そのような考え方の変化の後押しもあって、起業を考え始め、ピッチコンテストに出場したのはいつごろでしたか?

 

井出:色々なピッチコンテストに出ていたのが三年生の冬くらいですね。就活も、周りの人ほどではないですが、同時進行で行っていました。

 

━実際に出資を受けることになったガイアックスでのピッチコンテストがきっかけとなってシェアグリが誕生したそうですが、起業することを決める時に迷いや不安はありませんでしたか?

 

井出:その時は不安も迷いもすごくありましたね。三年生の冬にそのピッチイベントがあって、出資していただけることが決まったんですが、結局出資を受けて起業したのは大学四年生の8月でした。その間の期間はガイアックスの人と話したり、自分の両親とも話したりして、悩んだり葛藤したりしていました。

 

━その数ヶ月間を経て、どのように起業を決心したんですか?

 

井出:ガイアックスのピッチコンテストは、Facebookで参加者を募集しているのを具然見つけて、ガイアックスのことも知らずに参加したんですが、結果として出資していただけることになりました。それ以前は、起業にチャレンジしたいと思いつつも、一歩踏み出せずにいましたが、ガイアックスのピッチイベントを経て、自分が決断すれば出資をしてくれる人もいるし、事業をスタートできる環境を得ることができたので、それならこの機会を生かさなければすごくもったいないと思ったんです。両親には反対されましたが、やってみてどうにもならなくて、一年で潰れたとしても22、3歳とかなので、その後いくらでもやり直せる。それならこのタイミングで踏み出すのが一番良い決断だろうと思って起業しました。

 

━先のことも考えた上で、起業するなら今が一番リスクが低いと考えたんですね。

 

井出:そんなに先のことをちゃんと考えていたわけではないですが、今この瞬間自分が一番やるべきことってなんだろうと考えた時に、内定をもらっていた企業に入ることではなく、いただいたきっかけを生かして起業することだったんです。

 

後編に続く

「世界中のグローバル人材と日本企業をつなぐ」唐橋宗三 -後編-

「世界中のグローバル人材と日本企業をつなぐ」唐橋宗三 -前編-前編の続きとして、“Global People make Global Companies, Society”「テクノロジーで世界中のヒトと会社、社会をボーダーレスに」をミッションに掲げる、株式会社SPeakの代表取締役を務める唐橋宗三さんにお話を伺いました。

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唐橋宗三 株式会社SPeak(スピーク)代表取締役CEO

プロフィール:2001年に単身渡米し、バーモント州・ニューヨーク中心部で8年間を過ごし、世界中の優秀な若者のダイバーシティの可能性を感じる。外国人として過ごした異国での生活、日英バイリンガル最大級ジョブフェア・ボストンキャリアフォーラムの運営経験、日系グローバル企業・社会人学生生活の中で企業側・多くの学生側の課題や現状や可能性を感じ(株)SPeak立ち上げに至る。

 

【就職、退職、そして大学院へ】

 

━それで、大学卒業後はダイキンに就職されたんですね。日本企業で働く中で、アメリカでの生活とのギャップはありましたか?

 

唐橋:アメリカの企業では働いてないのでそこの比較はできないのですが、そんなにギャップは感じませんでした。ダイキンはグローバルな企業だけど、M&Aで大きくなった海外展開が基本で、オーガニックで伸びている地域っていうのは中国とか欧州ぐらいだったので、そんなに社内はグローバルにはなってないだろうと思っていましたし、日本人が多かったので、ある程度礼儀作法的なものは求められるだろうと思って入ったら実際そうだったので、ある程度思った通りでした。

 

━では、6年間でダイキンを辞めた理由はどのようなところにあったのでしょうか?

 

唐橋:会社として何も文句はないし、素晴らしい働き方をさせてもらっていました。ただ、僕自身がもっとチャレンジをできる環境を求めていたので、6年でやめさせていただいたんです。どの会社に務めるかということは、個々人に合う会社、合わない会社があると思いますし、初めの2年間は良かったけどあとの4年間は…みたいなこともあると思います。僕の場合は、ダイキンでできる成長とは違う種類の成長をしたかった、ということです。

 

━退職後は慶應義塾大学大学院でMBAを取得されたそうですが、MBA時代の経験はその後の起業にどのように影響していますか?

 

唐橋:MBAケーススタディが多かったのですが、それにはかなり本気で取り組みましたね。夜中まで1人でやって、その次の日の朝のグループディスカッションで少なくとも僕は積極的に発言して。MBAに関して勉強のことだけでいえば、一つの企業のことに没頭していたことは良い影響を与えていると思います。また、修士論文を書く際には自由にフィールドリサーチができるゼミを選び、グローバル人材と中小企業をどうやったらマッチングできるかについて、全国6000社くらいの中小企業にアンケートを取ったり、中小企業の経営者や大手企業の人事部の方とお話ししたりしました。

 

唐橋:そして、当時グローバル人材の定義について考えていた時に、日本人のハーフの子や日本にいる留学生に会いに行っていたんですが、その時に出会ったマークという留学生が今の事業には大きく影響しています。彼は日本語・英語が話せて、アメリカのヴァンダービルド大学という有名大学でエンジニアリングを勉強して、日本では慶應理工学部に通っていたんですが、就活というものをよく知らなかったがために、勉強だけしていたらすごく就活が遅れてしまったんです。結局彼は中小企業に勤めたんですけど、一年半くらいで辞めちゃって精神的にも病んでしまい、マレーシアに戻ってしまった。それにすごく腹が立ったんです。もうちょっと早く始めとけよ、というマークに対する思いもあったんですが、でもそれって日本の常識を押し付けようとしているんじゃないかと思って。

 

【過去の失敗から学び、1人でゼロから始めた起業】

 

━中小企業での新規事業を経て、SPeakの立ち上げに至ったとのことですが、起業を考え始めたのはいつ頃でしたか?

 

唐橋:MBAを卒業する前くらいですね。その当時50個くらいあった事業のアイデアを3つくらいに絞り、これで試してみたいと思ったんです。なるべく失敗のリスクを減らしたかったので、親父が経営する中小企業でテストプロダクトなどを出させてもらいました。でも、この事業でいけるかもと思ったのは、お客さんと話してからですね。16社くらいのクライアントを中小企業時代に持っていて、お客さんやユーザーと話したり、実際にプロダクトを使ってもらったりする中で事業に確信が持てるようになりました。

 

━起業する上でどのような苦労や挫折がありましたか?

 

唐橋:TED Talkで挙げられている起業の成功要因として、タイミング、チーム・エクセキューション、アイデア、ビジネスモデル、お金、この五つがあるらしいんですが、初期に僕が失敗したのはチーム・エクセキューション。2018年の12月くらい、中小企業でテストリリースをしたあとくらいのときですね。当時はクライアントが16社くらいいて、学生会員も500〜600人くらいの就活生がいて、プロダクトも一応テスト段階ではありました。だからビジネスモデル的には全く問題なかったんですが、正直その時のチームは、僕がソロで始めて、人材紹介などで引っ張ってきてあまり納得しないまま採用してしまった人とかとやっていたんです。その背景には、会社のミッションやビジョン、バリューを正直僕自身も舐めていて、こんなおままごとみたいな言葉はいらないだろうと思っていたことがあります。今考えると、当時は会社の人や文化、自分のマネジメントスタイルが全然ダメで、自己満足的な経営になってしまっていました。

 

唐橋:その責任は自分にあると思い、去年起業してからは1人で始めたんです。テストプロダクトを終了して、今まで働いてくれていた人やクライアントとも関係性を切って、本当にゼロから始めました。そこから、人もミッションもビジョンもバリューも、自分のリーディングスタイルも全てガラッと変えましたね。

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現在の一部のSpeakメンバーとの集合写真

━起業のための資金調達も自ら行われたんですか?

 

唐橋:もちろんです。MBAの時はそもそも、投資家がどんな人なんだろうっていうのが分からなかったので、何人かの有名な方に会いに行っていました。実際に投資をしてもらうフェーズに入った時には、まずは知り合いから辿ろうと思ってMBAの同期で先に起業していた人に話をしたら、ちょうど今の投資家の人を紹介してくれて、ピッチさせていただいて投資を受けることになりました。

 

━SPeakの経営を行う上で何を大事にしていますか?

 

唐橋:月並みですが、失敗を経て、バリューの重要性を強く感じたので、バリューフィットは大事にしています。例えばバリューを体現しててスキルが低い人と、バリューは全然体現できてないがスキルが高い人、この二者のどちらかを取るとしたら、前者を取るという考え方はずっと大事にしてます。

 

【焦って起業は禁物。まずはやりたいことを形に】

 

━学生のうちに起業したいと考える学生も増えていると思いますが、そういう学生に対して何かアドバイスはありますか?

 

唐橋:学生起業に協力的なVCも増えてきているので、その種があればどんどんやった方が良いと思います。もし種が自分では確信が持てない、または今はまだ固まっていないのであれば、仲間を作るのが良いと思います。例えば大学時代の仲間でも良いですし、起業家志望の人が多い会社を就職先として選んで、そこでこいつとなら何かすごいことできるかもしれない、と思えるような人を見つけるのも良いと思います。僕はソロで起業しているので、今はチームがあるので結構助かってますが、最初はやっぱり大変でした。自分とは違う強みを持った仲間がいると、より起業しやすいと思います。

 

唐橋:また、焦って起業する必要はないと思いますが、本当にやりたいことがあって、これをまずトライアンドエラーしたいというのであれば、とりあえず団体をやるとか、何かをアウトプットするのはすごく良い方法だと思います。

 

ありがとうございました!

「世界中のグローバル人材と日本企業をつなぐ」唐橋宗三 -前編-

今回は、“Global People make Global Companies, Society”「テクノロジーで世界中のヒトと会社、社会をボーダーレスに」をミッションに掲げる、株式会社SPeakの代表取締役を務める唐橋宗三さんにお話を伺いました。

 

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唐橋宗三 株式会社SPeak(スピーク)代表取締役CEO

プロフィール:2001年に単身渡米し、バーモント州・ニューヨーク中心部で8年間を過ごし、世界中の優秀な若者のダイバーシティの可能性を感じる。外国人として過ごした異国での生活、日英バイリンガル最大級ジョブフェア・ボストンキャリアフォーラムの運営経験、日系グローバル企業・社会人学生生活の中で企業側・多くの学生側の課題や現状や可能性を感じ(株)SPeak立ち上げに至る。

 

【テクノロジーで世界中の人と会社をつなぐ】

━はじめに、唐橋さんの事業について教えてください。

 

唐橋:私が代表を務める株式会社SPeakは、”Global people make global companies”をミッションとして掲げ、日本を世界中の若者のはたらくDESTINATIONにする、そして世界中のYoung Global Talentのためのボーダレスで新しい「就活」を作る、ということを目指しています。昨年の4月に起業し、現在はJ-port journalというウェブのキャリアメディアを運営しています。日本の就活を日本語と英語で解説するメディアなんですが、1年間で約2000名もの学生がサブスクライバーになってくれています。さらに、ウェブのマッチングサービスJ-port matchを現在開発中です。

 

【自分が輝ける未来を求めてアメリカ留学を決意】

 

━日本の中学校を卒業後、附属高校の自主退学を経てアメリカの高校に留学したそうですが、どのような経緯があったのでしょうか?

 

唐橋:私が中学校に入るタイミングで、大事にしていた親類が自ら命を絶ってしまいました。そのことで私自身も辛い思いをし、当時は世界が白黒に見えていました。そして学校でも、もともとサッカーをやっていて、勉強もそれなりにできて入ったつもりだったんですが、落ちこぼれてしまっていました。学校の画一的な教育方針に違和感を感じていたこともあり、ここで死ぬほど頑張って大学受験をして、たまたまどこかの大学に入れたとしても、自分なりに輝くことはできないのではないかと感じていました。それでよく考えてみたら、自分の唯一よくできた勉強が英語だったので、これが突破口かもしれないと思いました。留学すればこの白黒な世界からも離れられると思い、親に留学したいとお願いしました。

 

━高校の自主退学やアメリカ留学を決断した際には、将来の明確なビジョンなどがあったのでしょうか?

 

唐橋:全然ロジカルな決断ではなかったです。言うのであれば、何かしら爪痕を残したかった。高校を自主退学したときは、こんなのやってられないと思って辞めたんですが、このままじゃダメだとも感じていたので、アメリカに留学すれば名誉挽回できるんじゃないかという思いがありました。

 

━それでまずオクラハマ州の高校に留学し、その後バーモント州の高校に転校されたんですね。留学先ではどのようなことを感じていましたか?

 

唐橋:アメリカ人も本音と建前があるのはみなさんご存知だと思うんですけど、それでも意見を言うことや主張することには、何も文句言われることは基本的に無いという感覚が自分の価値観や文化に合っていると感じていました。また、中学に入る前からサッカーをやっていたんですが、中学受験で入った学校のサッカー部はレベルが高く、中学生になると下手な方になってしまいました。でもアメリカではいきなりエースになっちゃって。そういう自分が苦手だと思ってたことや、はっきり意見をいうことなどの日本では隠しておいた方が良いと思っていた感覚が覆ったことで、ここなら自分を伸ばせると感じましたね。

 

【多様なバックグラウンドを持つ部員がいるサッカー部でリーダーシップを発揮】

 

━高校卒業後はニューヨークの大学に進まれたそうですが、なぜニューヨークの大学を選んだんですか?

 

唐橋:ニューヨークを選んだ理由は三つありました。一つ目は、田舎に飽き飽きしていたこと。二つ目は、バーモント州に移ってから出会った香港からの留学生、今の妻が先にニューヨークの大学に通っていたこと。三つ目は、あまり興味のある科目がない中で、心理学には興味があったから。中学生の時に親類が自ら命を断つという出来事の影響で興味を持っていたし、高校の時に取った心理学の授業がおもしろかったこともあって、勉強を本気でやるとしたらそれくらいだと思ったんです。中でも犯罪心理学に興味があったので、ニューヨーク市立大学ジョンジェイ校がFBIやNYPDに人を輩出してると聞き、この大学を選びました。

 

━大学でもサッカーを続け、サッカー部の主将を務めていたそうですね。学部生の大半が黒人やラテン系移民だったそうですが、サッカー部の主将として苦労したことはありましたか?

 

唐橋:市立大学なので比較的学費が安く、学生も色々な国の人がいました。みんな学資援助を受けていたり、自分でバイトやフルタイムの仕事をしたりしながら勉強をしていて、生活がかかった中でサッカー部に所属している人ばかりでした。それに加えて、みんなすごく主張するから喧嘩も多かったです。チームメイト同士が互いを尊重する、ということがなかったので、私は主将としてみんなの話をちゃんと聞いて懐に入りつつ、やる気を出してもらうと言う感じでマネジメントしていました。それと同時に、怒るときは怒り、言うときは言うということにも気を付けていました。

 

【ボスキャリでのインターンを通して芽生えた、日本の就活を変えたいという思い】

 

━大学在学中にボスキャリの運営に参加したそうですが、参加の経緯とそこでの経験について教えてください。

 

唐橋:犯罪心理学を勉強していて、教授と話していた時に「FBIになりたい、プロファイリングとかできるようになりたい」と言ったら、「ドクターまで行かないと難しいし、そもそもFBIはアメリカで生まれてないとなれないよ。日本の警察庁とかに進むとしても、ドクタークラスは行かないと一流にはなれないよ」と言われ、それは無理だと思ったんです。もともと勉強が嫌いなので。じゃあもう就活しようと思って、二年生で初めてボスキャリに参加しました。その場で面接できる点などが素晴らしいと感じたので、三年生のときにボスキャリでインターンを始めました。一緒に運営に関わらせていただく中で、ボスキャリって企業側にかかる経費が結構高いんですが、その中で費用対効果が出てる会社は、あくまで僕の感覚ですが、意外と少ないんじゃないかと思いました。学生が焼肉奢ってもらう場所になってるぞと。おそらくこれだけじゃグローバルな人が日本にもっと集まるようにはならないだろうと感じていました。

 

━ボスキャリの運営に携わる中で、企業と人材が出会う場として何か感じた事はありましたか?

 

唐橋:もちろん僕自身も就活生として助けられた部分もありますが、ボスキャリは年に一度しかなかったので、繋がれる期間がすごく短いと感じていました。それに、アメリカには当時からリンクトインフェイスブックがありましたが、日本にはそう言ったツールがありませんでした。ギャップイヤーが取りづらい、といった学生に不利な就活ルールもありました。そういった日本の就活文化みたいなものを変えたいという思いは、その時から朧げにはありましたね。

 

アメリカの大学を卒業し、日本で働くという選択をしたのは何故ですか?

 

唐橋:日本に恩返ししたい、という気持ちがあったからです。日本には外のものを取り入れる文化が歴史的に根付いているはずなのですが、今そうではないのには、就活をはじめとする色々な壁があると思うんですね。そういう壁が少しずつでもなくなっていけば、もっともっと日本はダイバーシティに富んだ場所になると思っています。

 

後編に続く

「スタートアップを通じて社会にインパクトを生みたい」橋本翔太

今回は、企業とユーザーをつなげ、顧客体験を最適化するコミュニティタッチツール「commmune(コミューン)」の開発、運営を行うコミューン株式会社の共同創業者であり、代表取締役COOを務める橋本翔太さんにお話を伺いました。

 

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橋本翔太 コミューン株式会社共同創業者 / 代表取締役COO

プロフィール:ストックホルム経済大学留学を経て、東京大学経済学部卒業。卒業後Google Japanに入社し、マーケティング業務に従事した後、アメリカ本社に転籍。広告製品の新規顧客ダイレクトマーケティングをリード。退職後帰国し、コミューン株式会社を共同創業。

 

【やりたいことを見つけるために決意したスウェーデン留学】

 

━まずは大学生のときのお話を伺いたいと思います。大学4年時に留学されたそうですが、なぜ留学しようと思ったのですか?

 

橋本:大学の交換留学制度で、4年生の8月から6ヶ月間スウェーデンに留学しました。期間的にも短いですし、大学の単位も全部取り終わっていたので、かなり楽しい留学生活でした。留学を決めた理由の一つは、純粋に海外に行ってみたいという気持ちです。父親の仕事の都合で幼い頃にドイツに住んでいましたし、高校時代にも二週間くらい行ったことはあったのですが、一人で別の国や地域に行って様々な体験がしたい、という思いがありました。

 

橋本:留学先の選択肢はスウェーデンストックホルムか、フランスのパリしかなかったのですが、最初は「みんながパリに行くなら、自分はスウェーデンにしよう」という感じで決めました。でも実際にスウェーデンについて色々調べると、日本に限りなく近いところがある一方で、福祉国家と言われているように、独自の価値観を重視して社会を形成している面もあると知り、スウェーデンで学ぶことで日本を相対的に見るのも面白そうだと思って留学を決めました。

 

━留学を決意した当時は、何かその先の夢を抱いていましたか?

 

橋本:全然明確には抱いてなくて、漠然としていました。ただ、近くの環境だけ見ていてもやりたいことが見つからないと思ったので、外に出て新しい価値観に触れ、いろいろな選択肢を得るために留学しました。

 

━留学先で感じた日本との違いは、橋本さんの価値観にどんな影響を与えましたか?

 

橋本:具体的な違いは挙げればたくさんありますが、そもそも違いがあることを再認識できたことが学びだったと思います。スウェーデンに留学中、ヨーロッパ旅行もしていましたが、国ごとに前提が違うし、人や言語も違う。でもそれはただ価値観が違うだけで、その中でどれが正しいということはなく、自分自身もその違いの一部でしかない。このことに気づかされたこと自体が一つの学びであり、今でも根底にある価値観の一つかもしれません。

 

Googleに入社後様々な壁を乗り越え、起業を目指すように】

 

━なぜGoogleを就職先に選んだのですか?

 

橋本:Googleを選んだ理由は色々ありますが、一つはインターネットのトップランナーであり、新しい取り組みや仕組み作りに携われるという点です。もう一つはグローバルに展開していて、世界中にいるメンバーと協業でき、色々な環境に身を投じられるという点で、自分自身にとって刺激的で、先進的な情報に触れられるだろうと思って選びました。

 

━入社後3年間は日本オフィスに勤め、その後アメリカの本社でも働いていたそうですが、どんな4年間でしたか?

 

橋本:そうですね、すごく楽しかったです。チャレンジングな環境を提供してもらえたこともあり、業務で新しい挑戦をすることもできましたし、その後海外に行く機会を得ることもできました。さらに、業務とは関係ない別のプロジェクトに関わったり、スタートアップの支援をして、スポンサーとして色々なスタートアップのイベントに行ったりもしました。自由な土台があったからこそ、さらにGoogleという下駄も履いて、色々な人に会うことができましたし、なかなか経験し得ないことも経験することができました。

 

Googleに勤めていた4年間の中で、どういった山や壁に直面しましたか?

 

橋本:そうですね、日本とアメリカ両方での経験を合わせると、大きなものは3つあります。
一つ目は自分でドライブしていくことの難しさ。Googleはいい意味でも悪い意味でもいろいろなことに対して寛容ですし、自律的に動いていくことが求められるので、自分が何もしないでいれば何も得られません。最初はそんな環境に対して戸惑いがありましたし、自分でどこまでやっていいのかが分からず苦労しました。

 

橋本:二つ目は色々なチームやファンクション、国などの枠組みを超えることの難しさです。マーケティングチームで他のチームと一緒にプロジェクトをするとき、いかにしてそれぞれの目的を合わせてやっていくかということに苦労しました。新しい売り方や新しい切り口をGoogleから出していくために、何十年もその業界でやってきたような人とぶつからないといけない場面もあり、なぜうまくいかないのか、なぜこれを伝えられないのか、といった葛藤はすごくありました。

 

橋本:三つ目はグローバルコミュニケーションの難しさです。それまで日本の中だけでやっていたのに対し、USに行ってからはメキシコのチームとやりとりをしたり、NYに行って企業のイベントをしたりすることがあったので、英語でのコミュニケーションの難しさに加え、今までと違う環境で自分の意図を伝え、他の人と目的を共通にして何かを達成していくことの難しさがありました。

 

━たくさんの壁を乗り越えてきたんですね。起業はいつ頃から考えていたんですか?

 

橋本:大学一、二年生の時に東大起業サークルTNKというサークルで活動していましたが、その時点では自分が起業したいというよりは、高校までで起業というものに触れたことがなかったので、起業やそのカルチャーに興味を持った段階でした。

 

橋本:Googleの同期のなかには起業したり、スタートアップにジョインしたりするメンバーが結構いました。最初の一年でも五人くらいはそういった環境の変化を求めている人がいましたね。また、アメリカにいた時は週3回はサンフランシスコ支社、残りはシリコンバレーのMTV本社にに通っていました。そこでスタートアップのメンバーたちが社会に対してインパクトを生もうと挑戦しているのを見て刺激的を受けて、自分もそこを目指したいという風に方向性が固まりました。

 

【相乗効果を発揮できるパートナー、高田さんとの出会い】

 

それで起業されたんですね。共同創業者の高田さんとは、どんな経緯で一緒に起業することになったのでしょうか?

 

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橋本:他に選択肢がなかったからですね。嘘です(笑)。綺麗な理由は特にありませんが、高田が自分とは違う視点を持っていて、自分ができないことをできる人だったからだと思います。ビジネスアイディアの話をしていただけでなく、飲み会をしたり、Googleでランチに来て何もせず過ごしたり、一緒に旅行に行ったりする中でどういう価値観を持ってる人間なのかわかっていたし、自分とは違う視点で話す高田との議論が面白いと感じてました。だから、起業して社会に何か生みたいって考えた時に、一緒にやることで相乗効果があるだろうなと思ったんです。

 

━途中でサプリメント事業からピボットしていますが、その際に諦めようと思ったことはありませんでしたか?

 

橋本:あまりなかったと思います。そもそもスタートアップは一番最初に決めたものがそのまま伸びることの方が珍しくて、紆余曲折を経てたどり着くというのがよくあるケースだと思っていたので、ある意味健全というか、想定されるものだとは思いました。それに、スタートアップはチーム作りやどんなカルチャーにするかが多分に影響を与えます。高田とCTOの山本とやっていくという土台の上に、事業がのっているというイメージだったので、別の事業に変わるからと言って「じゃあ別のサプリ会社行くわ」とはなりませんでした。

 

【周りに遠慮せず自分が良いと思うことを言える環境が目的に達する組織を作る】

 

━今までのお話の中にもチームという言葉が何度か出てきましたが、橋本さんにとっての理想のチームの形はありますか?また、その理想の形をどうやってコミューンで体現されているのでしょうか?

 

橋本:私も運用しながらいろいろなことを学んでいる最中ですが、会社が目的ありきで作られている組織である以上、目的や目標がどれだけ浸透しているかが重要だと思います。全体の思想や目指すべき方向性が合致していて、それぞれが原則に則って自律的に動いていくことができれば、組織がやることやメンバーが変わったとしても機動力が落ちない、理想的な組織になると思います。

 

橋本:また、メンバー同士がこれを言ったら嫌われるんじゃないか、などと不安になる必要なく議論でき、アクションできる場である必要があると思います。今言われてる心理的安全性という言葉になるかと思いますが、職種・職歴・経験関係なく自分が良いと思うことを言える環境が、目的に達する組織を作る上では重要だと思います。そして、そのような環境を作るためには、言い合うことが奨励され、言い合うことによってその人の過去や人格、考え方を否定しているのではなく、あくまで目的を達成するために言っているのだという共通認識を持つことが必要だと思います。

 

━学生の中でも起業する人や学生団体を立ち上げる人が増えていますが、そのような学生に向けてチームビルディングについてのアドバイスはありますか?

 

橋本:同じチームにいても、そのプロジェクトに参加してどうなりたいかの前提はみんな違うと思います。だから、組織としての目的を考えるのもそうだし、一人一人がなぜそこにいるのか、何がしたいのかを腹を割って話すようにしないと、途中で脱退したり齟齬が生まれたりすると思います。もちろん最初の時点ではそんなに強い思いがないとか、言語化できないとかはあるかもしれませんが、みんなでそれらを考えたり、定期的に共有したりすることで、プロジェクトをやっていく上でみんなが常に立ち帰れる場所を作ることが重要かなと思います。そこまでが大変ではありますが。

 

【未来を信じて今やれることを】

 

コロナウイルスの感染拡大で事業への影響はありましたか?

 

橋本:ありますね。会社の事業自体への影響もありますし、会社のメンバーや取引しているお客様にもあると思います。オンラインへのシフトの必要性が高まった今、我々の果たすべき社会的な役割がコロナ前とは変わったというか、より研ぎ澄まされたものになっていると思います。オンラインへのシフトに貢献していくと共に、企業の生産性を上げ、ユーザーさんが本当に困っていることを解決していきたいと思っています。

 

━コロナ禍の今の大学生に向けてアドバイスをいただけますか?

 

橋本:「止まない雨はない」と捉える方がいいと思います。いいというか、しょうがないですよね...。家で一人でオンライン授業受けていて、「ずっとこれが続いていくのか」、「未来もこんなものなんだ」と思ってしまうかもしれないですが、今の状況がずっと続いていくのではないという希望を持ってほしいです。間接的ではありますが、私たちは社会がオンラインでつながることを促進していきますし、もし我々の体験とか話が少しでも「あ、そういうふうなこともできるんだ」とか「やってみたいな」というふうに思うことにつながるのであれば、すごく嬉しいなと思います。

 

━最後に、今後の橋本さんの将来図を聞かせていただけますか?

 

橋本:個人的な話だと、健康が第一ですね。これは私自身だけでなく、家族や友達、会社のメンバー、取引先やその家族にはやっぱり健康で過ごしてほしいし、健康が維持されるような社会作りをしないといけないなと思います。また、こういう社会になると不安定になったり悲観的になったりしがちですが、私はスタートアップを経営している立場なので、世の中の問題を今の会社を通じて解決したいです。会社に限らず、私の働きかけによってそういう問題を少しでも解決できるようにしていかないといけないし、できるように精進したいなと思います。あとは、楽しく過ごしていくのが大事なので、私自身も色々制限があったりきついなと思ったりすることもありますが、どう楽しく過ごせるかを思い描きながらやっていきたいと思います。楽しく過ごせるように皆さんも頑張ってください。

 

 

ありがとうございました!

“Real stability is achieved through continuously challenging oneself” Yuuya Takada

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【Born and raised in Iwate Prefecture, he moved to Tokyo to pursue work for the UN】

 

—It seems that you felt that you wanted to change the world since you were in middle school, what was the reason you felt this way?

 

Takada: Around the time when I was in 8th grade, tree planting as a form of community service for climate change prevention was turning into a movement, and my school participated by collecting 500 yen donations from each student to send to a local organization in inner Mongolia. At that time, I learned that the low cost of labor and cost of seeds in the country receiving the donations meant that the 500 yen could fund about 100 times the amount of tree planting that would be possible in Japan. I was from the countryside of Japan, so until that moment, I had always thought that I was not well off. However, after hearing that fact, I realized that I was simply part of a less fortunate group relative to the immediate environment around me, and I was actually very blessed compared to the entire world. And while we were eating until our stomachs were full, I felt uncomfortable knowing that there were poor people who did not have enough food on the table, so I felt that I had to do something about it. 

 

— So that is why you decided to work at the UN. 

 

Takada: I was only a middle schooler, and I did not have much knowledge, so I felt that I would pursue the UN in the meantime. I heard that the UN requires you to be able to speak another language besides English, so I attended a high school where I could learn languages other than English, and I thought I would go to Tokyo because becoming a government employee was the best way to enter the UN from Japan. 

 

— I see that you were very diligent about your dream of working at the UN. What did you major in College? 

 

Takada: I thought that if I were to join the UN I should study international relations theory and I joined the third division of the College of Arts and Sciences, but when you study international relations theory you might gain an “education as an international person”, but you don’t specialize in anything beyond that. So when I thought about other fields of study, I was very interested in economics. But I didn’t think I was smart enough to work as a so-called pure economist at the UN, so I chose agricultural economics. In many countries, the primary industry makes up a large part of the GDP, so agricultural economics has a large presence in international relations. 

 

— While chasing your dream, was there ever a time when you lost your motivation? 

 

Takada: I did before I entered college. I grew up on the coast of Iwate prefecture in a village of about 4000 people, and half of the class would attend technical high schools, so when I was in middle school and high school I was a bit of an alien, and people felt like they didn’t know what I was talking about. 

 

— In that situation, how did you develop the strength of your will? 

 

Takada: Due to this background, I did not meet anybody more successful than me until college. So it was like being the king of a small country, and that worked to my benefit and I grew up feeling like I was special. This feeling was strengthened further when my father was laid off from his job. At that moment, I became enlightened to the fact that stability that is entrusted to others is a false image, and stability is only attainable through challenging oneself continuously. Also, my town experienced a catastrophe during the winter of my freshman year. Some of my friends and peers passed away, and the idea of death became close for the first time. I realized that you don't know when you will die, so I strongly felt that I should pursue what I wanted to pursue.  

 

 【Internship at OECD: My life’s turning point】

 

—I understand that you interned at OECD in your fourth year of college.

 

Takada: Normally, you have to be a masters student to be an intern in the field of international relations, but, after hearing that France’s educational institution grande e’cole considers Japanese fourth-year students to be first-year masters students,  I decided to study abroad at a French university, and I used the student certification from that school to apply for the OECD internship. 

 

—What was your path like after returning to Japan? 

 

Takada: After interning at OECD, for the first time in my life did not go according to plan. I returned to Japan at the end of December of my fourth year, and I no longer wanted to work for the UN after my internship. I had only planned on attending Tokyo University's graduate school because I needed my masters, so I was troubled and talked to a friend who had a job offer from Boston Consulting. Through that friend, I was introduced and my job offer was decided. After staying at BCG for four years, I started a business, and that brings me to the present. 

 

—After your internship with OECD, how did you feel when the dream that you spent your entire life chasing fell apart? 

 

Takada: Because only the “how” changed and the mountain I was climbing didn’t necessarily change, I realized that the hypothesis I had for my “how” was wrong. So I didn’t lose belief in myself, but I did contemplate very hard on the fact that the thing I had been aiming for so long was not really what I wanted. 

 

—So that’s where you became interested in business. 

 

Takada: No matter what, there are always things that better society but do not provide income. For example, while one can say that you are better off going to war when you get down to economic efficiency, from the perspective of peace and people’s happiness, war should be avoided. Or take a medium to long term problem like global warming. Problems like this that cannot be solved with economic rationale or problems that become medium to long term discussions as a result of economic rationale are well suited for the UN. But I personally did not have much of a passion for that, so I thought I would do business. 

 

【Facing many obstacles at BCG】

 

—After graduation, you entered BCG and gained experience working at offices in Japan, Shanghai, and LA. How did you overcome differences in treatment and language barriers?

 

Takada: Shanghai and Los Angeles were pretty difficult. The Japanese branch was an environment where an associate could easily tell their partner “I have no idea what you are talking about”, but in Shanghai, the senior-subordinate relations were very tough. When I first asked the project leader “Regarding the task you asked me to complete, I could not understand the purpose of doing it, so I gave it some thought, what do you think?”, the leader was furious and I was kicked out of that project. I went to other parts of the company to see if they would let me in another project. 

 

Takada: After that, I worked in Japan for about a year, and I then went to Los Angeles for about 8 to 9 months. In Los Angeles, the barriers of competence and language were hard to overcome. Consulting is a job where you sell words to the client, and it is a business where there is a back and forth of words within the team. If you’re even a little bit too late, you lose your chance. Nobody wants to do it, but someone has to do it. By proactively doing that job I gradually gained the trust of my team members, and they began to listen to me. 

 

—Have you experienced cultural and language barriers since starting your own business as you did when you were in Shanghai and LA? 

 

Takada: I think it's good that from middle school to college, and at BCG Japan, I never felt that I was not valuable or that I wanted to run away. Starting a business is a lot of pressure, and it is good to be able to say that I am better off compared to those days when I would wet my pillow every day. 

 

【We think we would definitely succeed with this person, but no regrets even if we fail】

 

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—How did you meet Mr. Hashimoto, your co-founder

 

Takada: I joined the same circle as Hashimoto in college, but we didn’t really have a strong connection in college. But when we entered the workforce, there were few people who were thinking of starting a business so we naturally ended up talking about that. And we were working in America at the same time, so we quickly became close in America. 

 

Takada: At the time, Hashimoto and I had this feeling that we were at the end. Only about one Japanese person every few years is able to enter a Japanese branch and get a ticket to the US. To go beyond that and try to stay in the US requires one to get a green card and commit to that company for a few years. Either that or decide on a new career even though I had just arrived. We had to make our decision around the same time period, and both Hashimoto and I did not want to settle with what was safe. 

 

—So that's when you and Mr. Hashimoto started a business. Tell me about the reasons behind you becoming the CEO and Mr. Hashimoto becoming the COO, if there were any. 

 

Takada: I think it’s based on what we were good at. I am more of a goal-oriented person and Hashimoto is more of a people-oriented person. And since the purpose of a company is not to survive as a company, but to do something, the decision-making at the management level should be based on a goal. If you don’t do that, you can’t make the difficult decisions. On the other hand, I am not good at the maximization of team performance, so I leave the operational parts to Hashimoto. 

 

 —What qualities do you possess that are sought for in a CEO? 

 

Takada: First is choosing the mountain to climb, and second is to roughly choose how we climb. If you do that much, everyone else will do the rest. The third is making the right decisions, even if they are not always rational, including the painful ones. There’s no reason for me to be there if the same conclusion is going to be reached by anyone who thinks about the issue. So, for example, in cases where the opinions are split, or where a large group of people are against my idea, I have to be able to make the right decision. 

 

—Are there qualities that you look for when choosing who to hire? 

 

 Takada: We are divided into three levels: the so-called management members, the manager/director level below them, and the member level. For the management members, I think it is very important to be able to feel that the candidate would definitely be a success, while there would be no regrets for choosing him or her even if it failed. If only the former is met, you end up choosing people that only have skills or people who do not share the same values but agree only in timing. If only the latter is met, it is likely that you might get along but their strengths may not be so different from your own. I felt that I could not go wrong with Hashimoto regardless of success or failure because Hashimoto and I are completely different types, our roles are entirely separate, and we attended college together. 

 

Takada: At the management and director levels, we value culture-fit, but there are also two additional things we look for. One is whether or not they have the ability to fill our management positions, and the other one is whether they can maximize the team’s performance. It sounds obvious, but it’s actually not common in this world for someone to be able to make the members’ performance go from 100 to 120. 

 

Takada: At the member level, I think the degree to which the candidate aligns with the company’s values is very important. We don't look at things like skill very much. This is because, at the member level you are not talking every day, so from the management’s perspective it is necessary for them to be self-sufficient to some extent. 



【Doing what you want to do by continuing to challenge yourself】

 

—How do you feel about the recent growth in the number of students who are interested in entrepreneurship? 

Takada: I think it is wonderful. When you start a business after working for a company, there are a lot of things that have to be given up. Also, things like marriage, raising children and caring for parents all come up as you get older, and it quickly becomes a hassle. So people who have the motivation should get started now. 

 

—Entrepreneurship is not a goal, but rather a tool. Should entrepreneurship still be pursued? 

 

Takada: It would be good if entrepreneurship is only a tool because it would be a tool for a variety of things. Whether it is for changing the world, or for experiencing society, I think there are a lot of reasons and interests, and I think it should definitely be pursued for those reasons. You learn a lot, and I don’t think there is a single negative thing about starting a business as a student. 

 

—Do you have a message for the young people in Japan today? 

 

Takada: I think this is also for my younger self, but I think you should challenge yourself more. There are two reasons for this. One is that, through my own experience, I was able to do what I wanted as a result of continuously choosing the path that was not easy for me. If you’re considering choosing a safe option or a stable job at this point in time, I think you are better off doing what you want to do. The second reason is that the proportion of Japan’s working-age population is extremely small. That basically means that young people are very valuable. From a social scene perspective, young people have a significant advantage. 

 

—Finally, please tell us how you are imagining your life from here on out. 

 

Takada: At my company, at the moment I feel that there is no “if we do this we are done”, so I will continue to work quietly on the business side. However, in terms of life, back then I had an attitude that I was going to change the world, but now that I’ve reached a decent age, I think it is important to know how to raise the next generation. In terms of the workplace, I think it would be great if the communal dedication of members leads to strength and opens doors to the next career. 

 

 

Thank you very much!